仇桜

事務所の近くにはいくつかの学校があって、入学シーズンにはちょうど桜が咲きます。
最近は桜を愛でる機会を逸してしまっています。

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掃除をしていたら、小学校の卒業文集の中に当時の校長先生の卒業生への挨拶文が一番最初に載っていました。
卒業証書を手渡してくれたこの校長先生が太っていたか?背丈がどんなだったか?頭は禿だったどうか?・・・・・どんな感じの人だったかすら、思い出せませんが。



『明日ありと、想うこころの、仇桜、夜半に嵐の、吹かぬものかは』

親鸞聖人の歌を取り上げて、「卒業生の皆さんにはできるだけ早くこの意味をわかってほしい」とありました。


調べてみると、親鸞聖人が幼少期に得度(僧侶になること)するため夜更けに青蓮院の和尚のもとを訪れ時のこと・・・・得度には時間もかかり、多くの弟子を集めなければならないので、「もう遅い時間だから明日にしよう」といった和尚に、わずか9歳だったという親鸞聖人は和歌を詠んで答えたらしいのです。

『明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかもしれない。桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今ここで得度の儀式をさせて下さい』と言う、いわば親鸞聖人のゴリ押しの心情を表わしたものであると言われています。その結果、聖人のその和歌に心打たれ、和尚はすぐに得度の手配をしたというお話です。

生年月日が定かでないので、営業マンの相だったかどうか?今月の二黒土星の様に粘り勝ちのバイオリズムだったのかはわかりませんが、人を感動させるほど真剣だったことは事実なのでしょう。


この歌と一緒に
「歳月人を待たず」
「月日に関守なし」
と並んで校長先生の贈る言葉が書かれていました。

確かにおっしゃる通りです。
でも、あまりにも月日の流れが早いことを切実に実感したのはこの10年ぐらいで、小学生にはわからんでしょう?

当時の校長先生の年齢から想像すると、自分ももう少し歳を重ねると、もっとこの感覚が早まることになるんだろうな~と予想しています。